私が今までフランク・ダラボンに対して抱いていた印象は、説明過剰、わかりやすさ過剰の二流監督というもので、だからキングの大傑作である「霧」を、またもやダラボンが監督すると聞いた時には失望しか感じなかった。しかし今回は違った。ダラボンは「やったらできる子」だったのだ。
とにかくテンポがいい。必要最小限の時間で登場人物の紹介を済ませ、あれよあれよという間に霧に包まれるところまで進んでしまう。「だらだらダラボン」と揶揄したあの作品とは別人のよう。キャストもミセス・カーモディ役のマーシャ・ゲイ・ハーデンと、オリー役のトビー・ジョーンズは文句なしに素晴らしかったし、「ドリームキャッチャー」や「ショーシャンク」、「グリーン・マイル」、「死霊伝説 セーラムズ・ロット」、「ゴールデン・イヤーズ」などのキング映像化作品でおなじみの顔ぶれが多数登場しているのも嬉しい。2台のカメラで常時撮りまくって、役者もどこを撮られているのかわからないという撮影手法も、緊張感を高めるのに抜群の効果をあげていたようだし、
tkrさんが書かれていたような、キングファン向けのくすぐりもあちこちに。(*1)ただ、クリーチャーは・・・・ちょっと物足りない。大物はいいとして、小物がどうも。異次元の生物が何故あんなに虫っぽいのか? もう少し異形で独創性の高いものだったらと思うけど、クリーチャーとの対決ががメインの作品ではないので我慢するとしよう。
以下ネタバレあり
そしてあのラスト。「映画史上かつてない、震撼のラスト15分」なんてありがちなコピーの作品に限ってたいしたことはないもんだ、なんて思っていたらほんまに驚愕。このての映画の定石を完全に覆すもので、よくアメリカ映画でこのラストが作れたと感心した。そりゃあこの映画がアメリカで受けなかったのも当然だろう。だって銃でも信仰でも(ついでに書けば、勇気でもインテリジェンスでも物質的な豊かさでも)救われないなんてことが受け入れられる訳はないもの。
「怪物より怖いのは人間」「急いては事をし損じる」「幽霊の正体見たり枯れ尾花」「911後のアメリカどん詰まり」等々、この映画を見て思うことは人それぞれだろうけど、個人的に強く感じたのは生きること(運命と言ってもいいかもしれない)のまさに「五里霧中」な不確実さと寄る辺なさ。特定の信仰もイデオロギーも持たず、支持する政党も無く、ふるさとと呼べる場所も持たない、というのはなにも私だけでなく現代に生きる人にとってはむしろ多数派なのかもしれないけど、たまにその寄る辺なさに暗澹たる気分になることがある。そんな時には「ああ、なんでもいいから信仰を持っていてその教義に盲目的に従うことができれば楽かも」などと考えたりもするけど、はい、そんなことは幻想です、よくわかりましたダラボンさん。それにしても、あまりにも救いが無いな・・・・
この結末は、絶望的でありながらも希望は失わないという原作の持ち味から完全に逸脱したもので、原作を愛する者にとっては受け入れがたい(*2)という想いもあるものの、映画としては傑作だと認めないわけにはいかないだろう。「シャイニング」にしてもそうだけど、原作を蹂躙してると感じられるくらいのほうが、映画としては良いものになるというあたりがファンにとっては痛し痒し。衝撃的に後味の悪い映画だったにもかかわらず、多くのキングの映画化作品が出来の悪さによって劇場から肩を落として帰ることばかりだったことを思えば、これぐらいのバッド・エンドなんか屁でもない・・・・というのは強がりが過ぎるかな。
(*1)私もひとつだけ気付いたのは、車でスーパーへ向かう途中「WZONが入らない」なんてセリフがあったこと。WZONとはかつてキングが所有していたハードロック専門のAMラジオ局のこと。それにしてもあのイラストのローランド、マカロニ・ウエスタン時代のイーストウッドにしか見えなかったぞ。
(*2)キング自身は「自分がこれを思いついたら小説の中で使っていただろう」と言っているらしいけど、それはありえへんでしょう、カラーが違い過ぎるって。